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ギャラリーズアイを見てきた。

僕すごい鈍感なんだと思う。何も感じられなかった。
ぐっと入れる作品はいくつかあったのだけれど、
それはあんな空間でもそれを起こすことが出来る作品の凄さで
ギャラリーともギャラリーズアイとも関係ないように思えた。
視点ということでも大きな差はなかった。
どちらかといえば同じ世界の住人のように見える。
9割の作品がどこのギャラリーにあっても
そんなに違和感ないだろうし。

あれをアートとして見るのは物足りなさ過ぎて出来ないし、
あれをギャラリーの力や眼としても全く見れなかった。
もちろん使ってみたい器もあったけど器は器で、壺は壺で。
写真で見るよりも実物の方が普通だった。
オブジェ的なものも、インテリアとしては良いし
生活の一部になるという意味ではとても日本的だったけれど。
ただアートって何?というのがあるからね。
僕の中でのアートなんて、今回のギャラリストから簡単に論破されるレベル
だし、自分の中にアートに対するロマンチックな幻想があるのかもしれないが、
それより作品としてもビジネスとしても
地獄の三丁目に行く気が感じられなかったからつまらなかったのかも。

FBに様々な論評が出ているんだけど、
皆さん本当に細やかに感じ賛否両論ありながら丁寧に語っていて
自分の鈍さに笑っています。
そしてやる意義について書かれている物が多いのだけれど
展示として見る価値があったのかはあまり触れられていない。
あれだけの旬なギャラリーと並んでも欲しい作家物だから、
価値はあるのだろうけど、それは運営側の意図とは違うと思うし。
作家に見て欲しいという事でしたので行きましたが。

「まりおの生けた花が良かったです。気づけばまりおのを見ていました。」

結局、行く前のモヤモヤは更に増大してしまって、
帰り道に僕がいる所・いたい所ではないのかな
という思いだけぐるぐるしていました。
単純に嫉妬かもね。

そんな感じだったので、その後に見に行ったクートラスは
僕には温泉のようでした。
クートラスの絵はいつ見ても「素敵!いい!」と単純には思えなくて、
すごい好きなんだけど見ていると
ものすごい重くてしかも質の違ういくつかの感情や波が
どんどん絵から僕の中に入ってくるから辛くなるときもあって。

だからあれを所有する事は僕には出来ないかもといつも思うのだけれど、
あの日のクートラスは心地良く体に浸透していきました。
前に見たものや松濤美術館の空気と
ギャラリーズアイとはまた違った見に来ている人の質にもよると思いますが、
ただただ僕はあの中で漂っていました。
僕にとってはとても純度が高くて本当を感じるからかもしれないです。

同日に行ったので、ギャラリーズアイとクートラスを
同じ土俵に上げてしまいましたが
ギャラリーズアイとクートラスとコンテンポラリーアートは
本来同じ所のものではないのでそこは一応補足しておきます。

あ、もう一つギャラリーズアイで思ったことがありました。
あーなると素材をしつこく触っている作品が必然的に強くなるなと。
そしてその感覚は今年の自分の制作に少なからず影響を与えそうです。

そろそろ僕も制作に向かわなければ。

PS 普段から展示はかなり興味を引いたもの以外は見に行かないけど、
今後も行かなくてよい気がしてきた。
ギャラリーとの関係を作るのも仕事だよと言われるけど
でも行かなくていいや。面白くないんだもの。
僕が世の中の見方や美からズレていることも受け入れて
もう見に行かない。


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